特別寄稿

 
 Devastating Calamity(大災害)
                  ガスパレイ ミグィ キルス  (アフリカンコネクション)


  3月11日の震災で被災された全ての方に、先ずはお悔やみ申し上げます。被災地が1日も早く復興し、被災された方々が新しい生活を再建されますことを心より祈っております。

 私たちはこの大災害が起こった時、何処でどのように過ごしていたか、これから先何度も思い出すことになるでしょう。この日のことは、誰もが鮮明に記憶し、いつまでも忘れずにいると思います。

 晴れた金曜日のその日、私は仕事が休みでした。私が住んでいる橋本から1時間半離れた埼玉の自動車教習所で運転の教習を受けていました。2時46分、先生の横で私は運転の練習をしていました。車が激しく揺れ、先生は私が車の操作を誤ったと思ったようで運転を代わろうとしました。しかし、前方にいたバスも激しく揺れていたので、すぐに地震だと気が付きました。こんな激しい揺れを感じたのは生まれて初めてのことでした。そしてその後、9時間掛けて家に帰ることになりました。

 帰る途中、車の中でテレビのニュースを見、地震の規模と死者の数を知って自分の家族の安否が心配になりました。誰もがそうであったように、連絡を取ることが困難になっていました。私の場合は幸運なことに、ケニアに住んでいる両親、親戚の他、世界各地の友人たちが私たちの安全を確認する為に私の携帯電話に電話を掛けてくれました。しかし、私は私自身の家族との連絡が取れず心配していました。ケニアの両親は、国際回線使用の携帯電話で私の妻に電話を掛け安全を確かめると、その安全を又、私に伝えてくれました。私自身が直接、妻と連絡を取ることは出来ませんでしたが、妻の伝言を両親が電話で聞き、私に電話するという方法で家族の安全を伝えあうことが出来ました。私は更に、日本にいる友人や同僚の安全を確認したいと思い、ケニアに電話を掛けて電話番号を教え、その電話番号にケニアから電話をかけ、私に電話を掛け直し、伝言を伝えるという3方向からの立体的なコミュニケーションを利用しました。

 この大震災は私に大自然の威力を見せ付けました。そのすさまじい破壊力の前に人間は為す術がありませんでした。自然には敬意を払うべき威力があることを知らせているかのようでした。

 被災された日本の人たちは、災害時には落ち着いて行動することや団体として行動することがどんなに大切なことであるかを世界中に伝えています。日本の行き届いた訓練や安全に対する取り組みは、これからも世界中に伝えられるでしょう。もし同じような災害が日本以外で起こったとしたら暴動や盗難など多くの問題が起きたかもしれません。

 しかしながら、私は日本の人たちの行動の中に反省すべきこともいろいろあることを自分の目で見ました。その日、電車などの公共機関が止まってしまったので、私は埼玉から橋本まで車で帰ってきました。車からは沢山の人が道路を歩いているのが見えました。その横を通り過ぎるのは1人か2人しか乗っていない車です。私が乗っていた車も8人乗りの車でしたが、2人しか乗っていませんでした。若し私の車があと6人乗せてあげたとすれば、僅かながらも彼らの助けになると思いました。しかし、私の考えは却下され、従うしかありませんでした。どうして少しでも助け合おうとしなかったのでしょうか。

 食べ物や日用品の扱いにも問題が広がっていました。若し皆がどうしても必要なものだけ最小限買えば、多くの人が必要とするものが無くなる事態は免れたと思います。残念ながら、自分中心に他の人の生活を顧みない人が沢山いたことも確かなことです。

 テクノロジーが使えなくとも、生活は続くし、又続けなければなりません。日本の人が昔からこれまでどのように生き延びてきたかを学ぶいい機会だと思います。例えば、川から安全な水を得る、料理をする火を得る、暖を取る薪を集めるなど。車の代わりに歩くこと。そしてなにより、近所の人たちと協力すること。情報を共有すること。私はこれらが困難を乗り越えていく一番の方法だと思います。関東でも今後いつか大きな地震が起こるなら、3月11日の震災での経験を生かすことが出来ると思います。

 私は、日本人は、元気を取り戻して一生懸命働き、困難を克服して復興出来ると確信しています。沢山の人が私に訊きます。何故原発問題などの危機を避け安全を求めないのか?と。テレビなどで福島で起こった原発災害を見るたびに、ケニアの家族や親戚や友人から帰るように言われました。私の答えは、簡単です。日本は私にとって、第二の母国です。私がケニアから来たときから今までずっと温かく接してくれました。日本は、いつも私を励まし、最善を尽くすように勇気付けてくれました。大きくものを考えることを教えてくれました。

 日本は今後、現在の厳しい状況から立ち直って行かなければいけませんが、私はこれまで粘り強く努力を続け様々な困難を乗り越えてきました。日本がよりよい将来を築こうとしている努力を私も共有したいと思っています。どうして今、日本を去ることが出来るでしょう?今こそ、日本が私を必要とし、私が出来ることをしたいと思っています。原子力発電所の問題があっても、私は逃げることよりここに住み、何かをしたいと決意しました。それは、第二の故郷、日本とした約束であり、それを裏切りたくないと思っているのです。
 


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